昭和46年04月17日 朝の御理解
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
神信心と言う事は、ご利益を受ける事だという観念が強いと。これは誰でもおかげを頂くとやれやれと言う事になるであろう。もう間近だもう間違いなしと言う様に見えてくると、必ずそこに油断というか、安心、本当の意味での安心でなくて、やはり油断からくる安心というものが、これはもう誰しもの事だと思います。おかげを頂き抜く迄はと言う様な気持ちが張り詰めておりますけれども、もうすぐそこに頂上が見える。もうここまで頂いたから大丈夫だと思う様な心がありますと、つい油断が出て参りますね。
油断から生まれて来るやれやれという、ここで言うとられる安心とはそういうものだと思いますね。神信心とはご利益を受けることだと。まあ私は大体そう思うのですけどね。その問題はご利益なんですよ。ですからご利益とはおかげと言う事ですけども、その私共がおかげをおかげと感じさせて頂くおかげ、そういう信心にならない限りです、人間は誰しも油断が出来る安心が出来る、又は慢心が出来ると思うんです。いわゆる私どもが信心の稽古をということを申しますが、信心を頂くということ。
その信心を頂くと言う事が、人間の本当の生き方がわかることであり、本当の幸せ幸福というのは、信心を頂くことによってしか頂けないものだという思い込みをね、まず作らなければいけない。ご利益目前の様々な願い事、そのことが一つ二つ成就したからといって、人間が幸福になると言う事はないと言う事を、私共が本当に信心を頂くという姿勢、本当に信心を身に付けて行こうとする、信心の稽古を本気でさせて頂こうとする姿勢の中からしか人間の幸福はありえないと、一つそこんところを分ってからの、今日の八十一節でなからなければいけない。
そうしてみると、九里半登ってもと言う事はなくなってくるです。いつもが九里半、恐らく、向こうへ下りたら安心じゃと仰るのは、私どもがお国替えのおかげを頂く時までだと。お国替え頂いたらやれやれ安心。生前稽古によって積み上げてきた徳、その徳を持ってあの世へ行けるのですから、いよいよ安心。ですから今日の御理解は、大きな意味での言わば信心と申しましょうかね。
小さな信心より大きな信心がよいと仰せられるのは、大きな信心とは、ご利益を頂くことが信心なのですけれども、けれどもご利益の内容というもの、おかげの内容というもの、私はそこんところを、おかげをおかげと分からしてもらえるおかげ。そこから今まで気付かなかったところに、いよいよ深い又は広い神様のおかげ、言うなら御神徳の中にある自分をいよいよ分からしてもらう。
それがいよいよ広うなって行き、深うなって行くと言う事。そういうおかげを受けることにあたっては、もう向こうへ下りたと言う事はない、いつも九里半。言うならばギリギリの信心をさして頂く。そう言う事になると、どうも信心が大義なように聞こえて参りますね。こんなギリギリの信心をいつもしとらんならんなら、いつも何か背中に重たいものを背負っているような感じが致します。
せんでもないですけれども、そこのところが信心の稽古。信心の稽古をさせて頂くということがいよいよ有難いものになってくる。例えば私どももこうやって一日お使い回しを頂いて、御神前奉仕をさせてもらいます。もうこれは七十位になったらいっちょ楽隠居でもしよう。まあ七十までは頑張ろう。そう言う様なもう思いはさらさらないです。もう御体の動く限り手足の動く限り、お使い回しを頂かにゃならんと思った。なぜかというとね、それが段々楽しさというものが、深く広くなってくるからなんですよ。
私は信心はそれだと思う。一年間はいっちょ本気で参ってみろう、何ヵ月間いっちょ朝参りしようと、そんなもんじゃないんです。ですからいつも九里半。例えば私どものように、そうして、真実そう思うのです。もうそれこそ生命ある限りであります。ああじゅつないことだなあ、死ぬまでこげな苦労せんならんかと思うたら、そこに幻滅。けどもそのことが日に日に、ま細かに言うたら、日に日に有難うなって行き、その有難さが広う深うなって行くことが楽しいのですからね、信心の稽古というものは。
これをいっちょもろうたならばというのじゃない。あれはどなたでしたかね、善導寺の原さんでしたか、息子さんの、ああいう奇跡的なおかげを受けることになった。そん時に親先生とまあつまらん約束をしたもんだと。私ども夫婦が一生命のある限りお参りは止めませんと。まあ息子の命を助けてもらいたい一心でそう言うたことは言うたけれど、これは一生参らにゃんとは大変だと思われた時代もあったと言う事。
ところが例えば、十年経ち、二十年経ちしてゆくうち、成程神様とのお約束は果たされて行きよると言う事だけではなくて、もしこれでお参りが出来んぞ、参って来るなと言われたら、どんなに淋しいことになるだろうかと言われる。それは成程、日々様々な金銭のお繰り合わせもありゃ、身体の上におかげ頂かにゃならんこともある。人間関係のことも深刻に感ずることがあるけれども、そのことの総てがです、信心の稽古の対象である。材料になっておることからです。
私はそう言う風に、今止めれと言われたらどんなに淋しい事であろうか。もし参られんというたら、どんなに淋しい事だろうかというのが現在原さん達夫婦のご信心だと思う。私は信心とはそれだと思う。だから原さん達の場合いつもが九里半だと言う事。それでも人間ですから、それでも油断が出来ん事もないじゃない、油断が出来る。いわゆる信心生活が本当の意味において出来てくる。そこでまあ言わばこれだけの事ですけども、実際問題として、日々様々な事というか、難儀な事に取り組んでおって感じる事。
昨日のお道の新聞、まだ読んでおりませんけど、「節あり道あり」という、お道で言うなら長老ですね。長老格の年を取られた先生方のもっとられる教会のことが出ておりますが、松下松太郎という先生が、ここに見出しに書いてありますが、「思召しのままとは命を神様に預けること」と書いてある。思召しのままとは命を神様に預けること。御神意のままに、任せ切ったと言う事が、思召しのままにと言う事。信心生活を厳密に言うと、それが信心生活だと思いますね。私も昨日それに似たことを頂いた。
昨日むつやの健司くんがお参りして参りまして、自分の身の振り方についてお伺いしたいと。店のいわゆる呉服屋さんですから、店の人が殆どいなくなってしまって、せめてその弟であるところの健司くんが、兄さんの信司くんの片腕になって、手になり足になりしてやってくれるならば、兄もどのようにか心強いことであろうかと思うのだけれども、自分はどうにも嫌だ商売を。それで兄も手伝ってくれと言うけれども、手伝うという気持ちがしない。そこで先生最近私はあることを思い立っておる。
ある仕事をさして頂こうと思いよる。だからそのことに一つ、まあ本気で命を懸けて行く仕事にして行きたい。どう選ばして頂いたらよいかと言う事であった。だから本当のことを言うとね、親の願いの中に没入して行くと言う事。それをもっと難しく信心生活、信心というのは、この頃からしばらくここで修行というよりも、まあしばらく居候しとったという感じ。私も何も申しませんし、言うならば寝ちゃ食い、食うちゃ寝といった毎日を随分長く続けました。
けれども私はここにおってくれるならば安心だと思いましたです、よそにおるよりも。ですから、何かしら折角教会におるのだから、御祈念にどん出て来んかというふうな、全然思いませんで、自分が気が向いたら出てくるといった具合のことでございましたが、私が知らぬ間に、他に仕事を頂いて帰っとります。そしてからやってきとるわけで、本当に私は、健司くん、親の願いというものをあんたが分からしてもろうて、親の願いに一心になるというか、親の願いに没入するというか、親が私に懸けておった親の願いを応えて行くという生き方が、大体言うて一番本当なんだけれども。
あんたがあれが嫌、これが嫌と言うなら仕方がない。また兄の仕事を嫌々ながら手伝ったところで、却って足手纏いになるというようなことなんです。これは本当ですよ。同じ一緒に仕事をしておってもですよ、自分の思うように動かないものがそこに一人か二人かおってみなさい。もう自分自身が気が腐ってしまって、もう嫌になっちゃう。折角の弟がすぐ側におってくれて、もうそれこそ本当に手になり足になり、一生懸命やってくれるからこそ、本当にこの人がおってくれるから助かるというものが生まれて来るのであって、さあ言うことは聞かん、朝はいつまっでん寝とる。
どこそこに行ってくれと言うたっちゃ、はいとは言わん。もうおらん方が却ってましだ。だから言うならばです、「私はやはり今あんたがどう言う事を思い立っとるか知らんけども、その思い立っておることをいっちょ本気でやってみなさい」といって申しました。「けれども健司さん、それは決して親の願いじゃないのだぞ」と。「ただあんたの願いを中心にしてま、見ておる言っておる。本当言ったら親の願いである」とまあ申しましてね、その親の願いに没入すると言う事。
ここで皆さんが、親先生任せと言った様な事はそうだと思う。親先生に命を預けると言う事なんだ。思召しのままにそれを少し大きく言うと、信心生活とは親神の願いに没入している生活を言うのであります。御神願、神の願い、神の願いの中に没入している生活、それを信心生活という。だから今日私が申しております八十一節から頂くのはです、そういうことに合わせて頂きたい、ならせて頂きたいということなんです。そういう神様の願いの中に没入してしまえれる私。
それを例えば初めの間は原さんの例ではないけど、このようなおかげを頂かして下さるなら、ここで一番助けて下さるなら、私ども夫婦の者の一生ご恩は忘れませんと言う事だけではなくて、一生お参りをさせて頂きます、お参りをさせて頂きよる中に、信心の稽古と言う事が分かって来た。信心の稽古が分かって来たらです、今もし参っちゃならんと言われたら、淋しいことになるという、言わば神の願いの中に没入し始められたと。神様にお誓いをしとるけん参らにゃならんのじゃない。
そこから信心が信心を教えてくれる楽しさとか喜び、深さ広さが段々身に付いてくると言う事になる。ほんに合楽通いをいつまでせにゃならんじゃろうかと言う様な時代から、合楽通いがもうそれこそ純粋な気持ちで、唯一の楽しさであり、有難いものであるという時に、私は初めて神の願いに没入した信心と言う事が言えると思います。しかもまた神の願いに没入すると言う事は、また大変至難な事である。いわゆる思召しのままにというのである。偶には自分の得手勝手な方へ行きたい事もあるのですから。
けれどもです、思召しのままにという生き方がです、いかに尊いものであるか、有難いものであるかとの体験が次々と生まれて参りますから、段々そのことにならせられてくるわけであります。昨夜、御祈念を終わらせて頂いて、テレビ室にテレビ見せてもらいよった。そしたら、西岡さんがやって見えられましてから、えらい改まってから、「先生、今晩の御理解は、あれは私のことじゃなかったでしょうか」とこういう訳です。実際そうじゃなかった。と言うのは昨夕私はこのような話をしたんです。
どうも近頃目に余ることがある。これは一口注意しとかにゃいけんのじゃなかろうかと思いよることがある。それはまあ誰彼の上にですね、ところが今月の信心の焦点が、楽ということ。楽ということは気が大きくなると言う事。いよいよ大きなおかげを頂くためには、楽にならなけりゃいけん。どのような場合でも、楽に受けられる、心が泳がせられる信心が頂きたいというのが焦点でありますから、まあまあ待て待て、これは自分の心の狭い証拠だ。それでもやはり日々それが心に掛って来る。
そしたらね神様から頂くこと、ちょっと忘れましたけど、言わんと言う事ほど恐いと言う事。例えば言葉が過ぎる、どうもこの頃は言葉が横柄、例えば言葉だけじゃないけれどもその場合ところがですね、言わん者ほど恐い。黙ってね心の中で考えとるいうか黙っとる。これが人間が一番恐い。慎み深いようだけれども、ただ赤裸々に自分の思うたことをポンポンという人がある。それは言うて相手を傷つけるような場合があるけれども、それはまだまだ良いのだと言う事。その人は腹が良い証拠なんである。
そういう事を頂いたらね、私の心が楽になった。本当に耐えて黙って言わんよりか、これはちっと言い過ぎるごと言いよるけど、それの方が良いのだと。本人がその気になったら、ここでまよく言いますね。「先生私に悪か所があったら、どんどん言うて下さい」と言う人があったら、なら本人がそういう心になったら、「あんたこげん所改めにゃいけんよ」と言うてあげたいとは思いますけど、これは言うてはならん。
いやああして言うておることの方が却って良いことだと分からしてもろうたと言う様な事を話をした。これは皆さんの場合でもそうですよ。これは言う事だけじゃありません、言う事なすことがです、どうも気に障ってたまらん、どうもカンに障る。まあそれは自分の心が細い証拠でもあるけれども、本当にそれではこの人が助かるまいと思う様な事がある。けども態度に出したりですね、言うたりするのはまだ良い。それを出さんのはもっと悪いのだと言う様な昨夕の御理解。
それを聞いて西岡さん、「先生今日の御理解のように、目に余んなさるとは私じゃなかろうか」とこう言う。ははぁあれは違わん、誰のことじゃろうと言う様な事じゃなくて、西岡さんがそう言われて、わざわざ奥の方まで来て、そのことを確かめられるようにです、「これは決してあなたのことじゃないですよ。けれどもね、御理解というものは、私のこととして頂くのが本当だと言う事」と申しました。私ども信心の稽古をさせて頂くという姿勢はそれなんです。
ああ今日の御理解は誰に当て付けてござろうて言うのじゃなくて、本当に私一人に当て付けてござると頂けることこそが、私は信心の稽古をして行きよる者の姿勢だと思う。そういう姿勢をですね、取らして頂くということ、なのですから、これはもういつもあることである。お参りをしてきて御理解を頂くたびに、心に響くことがある。心に刺さるような思いをすることがある。
一生が修行である、九里半登ってやれやれと安心できないというのがそこにある。同時に、例えば、私の立場に立って、ここで信心の稽古をしている人達がです、ほんにこげなことで信心の稽古をしよると思いよるかと、目に余るようなことがある場合、私の心に障る。障るそのことが、自分の細い証拠であるとわかると同時にです、細い証拠じゃない、これはね、甘木の先生のお詠の中にあります。
[われ良しと、思う心を、仇として、日毎夜毎に、闘いてゆけ]
と言う事になる。家内が悪いのじゃない、子供が悪いじゃない、ここに目に余るようなものがあるなら、それはそのままが私の心の中にある。その自分の心の中にある。誰それが悪いのじゃない、私が悪いより他にないのだという頂き方。私はこれは今申します頂き方と言う事はね、今日言う八十一節で言う、信心の稽古をさしてもらうと言う事。または本当に自分自身の、信心生活がね、神の願いに没入して行くことだ。そういう生活が信心生活であると言うならば、それを目指すならば、根本的にこの姿勢をいつも取っとかにゃいけない。
[われ良しと、思う心を、仇として、日毎夜毎に、闘いて行け]
そこにはね、ただ自分が大きくなるとか、これによって自分を豊かにするということでなくてです、いよいよ自分自身が改まって行かなければならん。われ良しと思う心は仇なのだ。これは店をしておるものがです、どうもこの頃は、支配人が本気でない、面白くない。小僧達から番頭達までが、どうも自分の思うように動かない。そこにはいつも不平があり不足がある。それかと言うてならそれをです、自分の心の中に大きく泳がせて行くことも有難いけれども、それだけではいけない。
その様子を見て、いよいよ自分自身の心の中に、だらしのないものがあるのだ。言うことを聞かぬ店員がいるならば、自分自身が神様の言うことを聞きよらん私であることを、本気で気付かせてもろうて、言うことを聞いて、ならだらしのないなら、だらしのないことをです、改めて行く以外にはないのだ。そこに信心は限りなく進展して行く、向上して行く。そういう稽古をさして頂くのですから、向こうに下りて、峠を越して向こうへ下りた時が安心だと言われる安心が。
一生の中に、生きとる間にあるはずがないと私は今日思うのです。だから死ぬまでが、これはどんなに登りつめたようであっても、九里半だということなんです。お国替えのおかげを頂いて、長年信心させて頂いた信心の徳を持って、あの世に行けると言う事になった時に、初めて安心。向こうへ下りたら安心とはそう言う事だと。心許すとすぐ後へ戻るぞという時代はです、ただ信心とはご利益を頂くことだという、そのご利益のところだけ、このご利益を頂いたらもうお参りせんで済む。
このことのおかげを頂くまでは、いっちょ日参りをしようと、いう信心なんです。それには必ず人間というものは、やれやれ安心だと、もう峠が見えてきた、もうこれでいよいよおかげに漕ぎ着けたと言う様に、その手前のところで安心が、信心で言う安心じゃない。いわゆる油断から生まれて来る安心になる。そこからまた、折角ここまで頂いとるのに、また元に戻ってしまう。
そして元のところにいつ、もグルグルグルグル、堂々回りをしておる。だからおかげもそれに連れのうて、グルグルグルグル、堂々回りをしておると言う事になる。信心を頂くということ。どういう信心を、それはもう生活全体が信心にならなければ本当のことではない。信心生活、それは神の願いの中に没入して行く生活、そういう信心を目指して頂く限りです、やれやれと言う様な事はない。ある偉い先生のところで、記念祭が仕えられた。終わった後ある信者が参ってきた。
「親先生、大変盛大なお祭でご安心なさいましたでしょう」と言うてご挨拶申し上げたら、先生が仰った。「あんたたちはそげん思うとるか。私は次の記念祭の事を今考えよる」と仰った。やれやれ記念祭が終わって、これで安心なあというのじゃない、終わったら、お祭が終わったら最後、もう次の記念祭の事を思いよるとこう言われたという。いかに信心が有難いもんであるか、楽しいもんであるかと言う事を、いよいよ深く広くして行く事を楽しみにしておる姿でなければ言える事じゃないと思いますね。
私八十一節をですね、例えばここに私どものご利益ということ、おかげを受けると言う事、このことを一つ頂くためにという信心から、本当の信心を分からせて頂くための信心と言う様にです、なってくる時、信心の稽古が日々なのですから、いやまた稽古をせなきゃならん材料がゴロゴロ転がっておるのですから、場合には先程申しましたように、豊かで大きくなると言う事で、心が治まって行くことがある。
それでも治まらんこともある。けれどもそういう時には、根本姿勢である、信心の根本姿勢である、われ良しと思う心が仇のように思う心境ですから、自分自身の心と決めて行くという生き方なのですから、成程、信心の稽古には限りがない、また限りないお徳、限りない力を受けて行くことの楽しさが、それに伴うておるところまで、お互いの信心を進めなければいけないと思うのです。
本気で信心の稽古をさせて頂こうと言う事になりましたら、そのことを材料にすると、稽古の材料にしておるのですから、やはり難しいきついです。実を言うと今日はまだ昨夕から話させて頂いておる。そういう気分がすっきりしたものでは決してなかった。けれども、われ良しと思う心と言う事を、自分の心を見さして頂くようになったら、ややすっきりしてきた。ほんなことこれは人ではなかったなあ、信心じゃなかったなあと。「口ばっかりの先生のところに、聞くばっかりの信者」と。
私はこれは二十年も前に頂いた御理解なのです。毎日こうやって一生懸命お話しをさせて頂いておる。「あんた達はこの話を何と聞いておるか」と言う前に、私が口ばっかりの先生のところにやはり聞くばっかりの信者ということになってきた。ここでお話を頂いておることが血になり肉になりきらん。こっちが口ばっかりだから。例えば昨日の御理解なんか頂きますと、そういうことが分かってくる。「私の力というのはまるでショーのようなもの。見せ物、言わばお相撲さんの力のようなものであると気付いた」というようなことを申しましたですね。
ですからやはりこのような、様々な問題に直面する時に、どうもすっきりしないことになってくる。そして御祈念を終わらしてもろうて、ここに座らしてもろうて、五時の御祈念に灯りがついた途端に、私はもう心の底からスキーっとしたものを感じました。今日、徹くんが奉仕着を着けてあそこに座っておった。それを見た途端、一ぺんに心が有難いものになってきた。
これは私は徹くんが一生懸命の姿に見えたからなんです。だから人に与えると言う事。例えば私はここの御結界の奉仕の姿の中に、私に今日の徹くんのような一生懸命なものがもしあったら、問題は絶対ないです。もう御広前にお引き寄せ頂いた途端です、もうあれもこれも解決してしまうはずなんです。ところが、こちら自身に、今日の徹くんのような一生懸命なものがないところに、自分も悩みが出来たり、人にも苦しみを作らせたり、こりを積んだり積ませたりになってくるんだと思うのです。
私はそのことをいろんな理論の上からそれを申しました。だから聞いただけでは分からん。自分で成程合点が行かれたことと思うが、合点が行ったようであるけど頭では、心の方がすっきりしない。それはやはり自分が一生懸命であり、また一生懸命のものに触れることによって、これはもう理屈ではない、もう無条件に解決するものがあるということを、今日気付かせて頂きました。
どうぞ。